山陽新幹線の駅から在来線で40分、僕はようやく目的地の駅に降り立った。この辺りは地図上では線路が瀬戸内海の海沿いを走っているはずなのだが、車窓から海が見える区間は思いのほか少ない。この駅も小さな町の内陸側にあって海は見えないが、それでもほのかに潮の香りがする涼しい風がその存在を感じさせてくれていた。

これから向かう場所の近くには一応バス停があるようだったが、1日5本しかないコミュニティバスは電車の時間と合わなかった。歩いても15分くらいなので散歩気分で歩いて行く。駅前通りから町中を抜けると、低い堤防の向こうに島々が浮かぶ青い瀬戸内海が見えてきた。左に折れてここからは海岸沿いだ。右の頬をくすぐる潮風が心地いい。

緩やかな左カーブを描く海沿いの道を進んでいくと、やがて前方に僕の目当てのものが見え始めた。右手にひときわ近い島が迫ってきて、こちらの陸との間はわずか200mほどになる。その“海峡”はエメラルドの水面を透かして砂地の海底が見えるほど浅く、半ば陸繋島のようだ。そしてその浅い海の上には、こちらと島とを結ぶ赤茶色のシンプルなガーター橋が架かっていた。

進んできた道は橋の根元を避けるように、きつめに左に曲がって海岸線から離れていく。それによって生じた道と海の間の敷地には、橋よりも明るい茶色の瓦が載った三角屋根の建物が建っている。ただし、その周囲はフェンスで厳重に囲まれていた。

三角屋根に近づきすぎると怪しまれそうだし、どちらかというと見たいのは遠景なので、適度に橋が望めるあたりで立ち止まった。鞄からコンパクトカメラを取り出しつつ、時間を確認する。もうすぐ午後3時半になる。

しばらくすると、島の方からかすかに音が聞こえてきた。それは軽いディーゼルエンジンの響きだった。だんだん音が近づいてくる。そして、島の木立の陰から橋の上へ、「それ」は飛び出してきた。

列車だ。赤い小さな2両編成の列車が、右から左へ海上のガーター橋を渡っていく。赤い列車と青い海面、島々の緑のコントラストが鮮やかに映る。時速30キロくらいだろうか、ガタンガタンと橋桁を踏みしめながら、ゆっくりと瀬戸内海の風を浴びながら走っている。車両をよく見てみると、1両に前後2箇所の片開きドア、アーチや曲線で飾られたシックで優美なデザインだ。

列車は橋を渡り終えるのに合わせてスピードを落とし、こちら側の根元の三角屋根の前に停まった。しばらくすると、三角屋根の敷地から白いセーラー服姿の女子高校生がちらほらと出てきた。あの三角屋根は駅なのだ。あの駅は起終点で、列車は10分ほどで島へ折り返す。本当だったら今すぐにでも乗り込みたいところだが、それはできなかった。あの列車は、あの制服を着た彼女たち以外ほとんどの人間は乗ることが許されない、“幻の列車”なのだ。

ずっと見てみたかった光景を目の当たりにして、僕は感慨に浸っていた。


「清美女子学園は今年で創立90周年を迎えます。瀬戸内海の美しい自然と文化に囲まれた、ひとつの島の全域が学園という特別な教育環境で、生徒たちはそれぞれの個性を伸ばし、自律と社会をまなび、のびのびとした学園生活を送ります。……」

手元のパンフレットの1ページ目には、島の空撮写真とともにそんな挨拶文が書かれていた。

私立清美女子学園高等学校は中国地方随一の女子校で、関西や九州からも生徒を集めている、所謂お嬢様学校だ。パンフレットによると、学園は1984年、創立50周年記念事業として、長らく無人島となっていた瀬戸内海の小島・佐々島を島ごと買い上げて校舎を全面移転したのだそうだ。島一つ全てが学校の私有地、部外者は近寄ることすらできないという究極の防犯体制だ。島は南北約0.8km、東西約1.0kmでオカリナのような形をしていて、島の周囲は砂浜を除いて2~3mの崖になっている。一方で島の中は東西それぞれに小高い山があるくらいで、あまり険しくはない地形らしい。島内には校舎や体育館はもちろん、ホールに各種スポーツの競技場、合宿所など様々な施設が広々と配置されているようだ。

ただ、寮だけは島の中には建てられていない。清美女子学園は全寮制ではないものの、その立地からほとんどの生徒が寮に住むことになる。寮も島内にあった方が安全そうに思われるが、荒天時の孤立や急病人の搬送、また給食や余暇の外出も鑑みて、敢えて寮は本土側に造られているのだそうだ。寮は橋の根元の近くに学園直轄のものと学園が指定する民間のものがそれぞれいくつかあって、生徒たちは橋の根元の駅と寮の間は歩いて登下校する、とパンフレットにはある。

そして、このような状況をもとに、学園は島と本土を結ぶ交通手段として、安定輸送や地形の観点、島内を含めた移動距離や登下校時に短時間で大勢の生徒が移動することを踏まえて、歩道やスクールバスや船ではなく、鉄道橋を架けて専用列車を走らせるという選択肢に至った、ということだった。


三角屋根の「校門駅」から出てきた高校生たちは、こちらを訝しむどころか「こんにちは」と品よく会釈しながら僕の横を通って行った。僕もあわてて挨拶を返すが、彼女たちほどうまくできなかった気がする。ちなみに、実は見える範囲だけで3人の警備員が目を光らせている。

少しして、再びディーゼルエンジンの音が大きくなった。赤い列車が橋桁に踏み出して、島へ戻っていく。授業が終わったこの時間の学校行きの便に乗客は居なさそうだが、僕は見送ることしかできない。

正式には清美女子学園佐々島線というこの鉄道は、当然ながら生徒をはじめとした関係者しか利用することができない。あの列車に乗るためには、清美女子学園に生徒として入学するか、教職員として採用されるか、自分の娘を入学させて入学式か卒業式か学園祭の日に招待してもらうかのいずれかしか方法はない。さらに、防犯の観点から学園の敷地内で撮った写真はネットに上げてはいけないことになっているらしく、車内や島内の駅の様子さえパンフレットやホームページのごくわずかな画像からしかうかがい知ることができない。そうした条件から鉄道ファンの間では、外から指をくわえて眺めることしかできない“幻の列車”と呼ばれていた。

時刻は午後4時になろうとしていた。これからどんどん下校する生徒が増えてくる。長居するのもはばかられるし、僕も自宅まで帰らないといけないので、次の列車を撮ったら引き上げることにしよう。

――僕は物心ついたころから鉄道が好きで、両親の理解もあって年齢の割には各地のいろんな鉄道を乗りまわってきたと思う。だからこそこの“幻の列車”には強く惹かれるものがあった。今回念願叶って見に来ることができたが、やっぱりいつかは……次の下校列車が島から海上を渡って来るのをカメラに収め、僕は後ろ髪を引かれながら元来た道を戻り始めた。


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――1年後。

僕は真新しい白いセーラー服に袖を通して、山陽新幹線の停まる自宅の最寄り駅から在来線に揺られていた。初めて見るスーツ姿の父と新品のワンピースを下ろした母も一緒だ。

1年ぶりに降りた駅からは学園が送迎のマイクロバスを用意してくれていた。それに乗って5分足らずで、僕はあの三角屋根の前に立った。

「すごいな、本当にちゃんとした列車だ」

父が感嘆している。去年撮ってきた写真を見せたはずなのだが、やっぱり目の当たりにすると印象的なのだろう。

約1年の受験勉強を経て、僕は無事清美女子学園高等学校に合格した。学力というよりは面接の方が不安だったが、なんとかなったみたいだ。面接で一人称を「僕」で通せたのが少し嬉しかった。

入試や入学説明会は学園外の会場だったので、島の校舎へ行くのは今日が正真正銘初めてだ。周りの新入生たちもどんな学園か楽しみにしているようだったが、僕の興味はもちろんちょっとずれたところにあった。

三角屋根の駅舎に足を踏み入れ、書類を見せて“改札”を通り抜けると、そこには赤い小さな2両編成の、あの列車がドアを開けて目の前に停まっていた。あの日遠くから眺めただけだった憧れの列車に、いよいよ乗れるのだ。僕は思わず歓声を上げながら、前方に海を渡る橋を望む“幻の列車”に乗り込んだ。